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邑知潟開発のあゆみ

昭和25年頃の邑知潟(「旧越路野村史」(羽咋市立越路野公民館発行)より)

1.邑知潟の誕生

羽咋のシンボル邑知潟は、かつて羽咋市四柳付近まで達する大きな入り江でした。海水面が今より10mほど高い縄文時代(今から約5000年前頃)のころのことです。

 やがて氷河期となり、手取川などから吐き出された土砂が沿岸流や波浪によって運ばれ、しだいに羽咋砂丘が南から北へ向かって伸び入り江を塞いでしまいました。

塞がれ離水した邑知潟の誕生は、同時に原始的な水稲栽培に適した土地の誕生でもありました。

羽咋・金沢・小松における縄文~古墳時代の地形図(藤 則雄,1975)

2.農耕文化のはじまり

吉崎・次場に自然堤防と見られる微高地があります。稲が大陸から伝来してきた弥生中期、潟縁(水位が低いときだけ陸となるところ)をもつ微高地は農耕文化を築くのに都合のよい場所でした。

 北陸最古のムラ「吉崎・次場遺跡」から、田に水を引く水路跡と見られる杭列や炭化籾をはじめ、エブリや鍬などの農具も多数出土しました。

吉崎・次場の弥生時代の想像図(羽咋市のホームページより)

3.うね田(江戸時代の干拓)

江戸初期の頃、干揚場(潟縁とおなじ)や浅瀬を利用した新開(荒れ地を開墾して田畑をつくること)が盛んに行われました。

 潟縁での新開は、「うね田」や「むね田」と呼ばれていた方法が一般的だったようです。これは浅瀬などをたんざく状に溝を掘り、掘った土を脇に盛り上げてつくった「うね」を田んぼにする方法です。溝は、灌漑(かんがい 稲を育てるのに必要な水を与えること)排水、交通を目的とした小運河として利用されました。

 また、「カブト」と呼ばれていたもぐりの職人が、潟にもぐり比較的硬い泥を足で四角に踏み切る「鉄砲切り」という独特の方法で採取し、これを小舟に積んで干拓地まで運び、並べてうねをつくる新開方法もありました。

昭和49年頃の「畝(うね)田」

4.川流しで新しい村づくり

今から約340年前の江戸初期、干揚場や浅瀬を人工的に早くつくることを思いついた《吉野彦助》は、大雨の日に人夫を連れて飯山川の上流に入り、崖を削り土砂を川に投げ入れて流す「川流し」と呼ばれていた方法で、生涯780石(当時、約0.1haで1石の米がとれたようです。)の水田を開発しました。

 これまでの自然干拓から人工干拓によって、吉崎新村、金丸出村、潟崎村、堀替新村が次々と誕生しました。

 最近では、東潟町、西潟町、南潟町が国営干拓事業によって誕生しています。

新開を奨励するため、年貢の減免を定めた改作奉行の証文

5.赤開きを防いだ水門

好天が続き日本海が満潮を迎えると、無防備な邑知潟は海水の侵入をやすやすと受け入れてしまいます。そうすると稲が塩害で赤く枯れてしまう「赤開き」が発生します。当時3年に1回の割合で「赤開き」にあっていたようです。

 たまりかねた邑知潟沿岸土地改良区(当時は別の呼び方でした)は、知事に羽咋川の改修と海水の逆流防止水門の建設をお願いし、水門建設に反対した千路漁業組合と鹿島路漁業組合との話し合いも大正14年にまとまり、昭和4年に水門完成しました。

現在は取り壊された逆流防止水門

6.ひとりでに閉まる魔法の水門

日本海の海面(平均満潮位)は約50cmです。晴天続きの邑知潟の水面は海面とさほど違いはありません。

 海が荒れると海水は波を伴って羽咋川を逆方向に勢いよく流れます。その流れの力を利用して水門がひとりでに閉まるよう工夫したのが逆流防止水門です。

 魔法のような最初の水門は昭和4年につくられました。今から80年以上も前のことです。

7.半淡半鹹の邑知潟に変化

 海水の侵入を阻止された潟の生態系に変化が現れました。海産魚類の遡上はさえぎられ、淡水系の藻類や菱の異常繁殖は水温低下を招き微生物の繁殖が減ったそうです。

 当時の記録を見ますと、水門の設置は潟漁に与えた影響を知ることができます。

漁業不振の事態を深刻に受け止めた石川県は、潟を干拓して農地を漁師に与えることにしました。

 干拓工事は昭和8年に着工して、13年に完成しました。その年から稲作が開始されました。

 干拓地の農家は、堤防がなく洪水の脅威から解放されない沿岸農家から羨ましがられたそうです。

8.一石二鳥の全面干拓

千路干拓堤防が昭和19年の水害で決壊し。干拓地は再び潟に戻ってしまいました。

 単に堤防を復旧するのではなく、邑知潟に堤防を築き全面干拓をすれば、水害から潟縁農業を守ると同時に農地も増やすことができると考え、昭和23年に邑知潟干拓期成同盟会が結成されました。

 漁業組合との調整を経て、昭和23年に干拓工事を開始し、43年に完成しました。今から40年以上前のことです。

国営干拓事業の計画図

9.邑知潟に夢馳せた人達

邑知潟の全面干拓の青写真を最初に描いた鳳至郡道下村の丹治は、文化13年(1816年)4月に1万石の干拓を郡奉行に願いでましたが、実現はしていませんでした。

 金沢市の眞館貞蔵他10名は、大正2年(1913年)に全面干拓の願いを知事に出したものの、正式書類の提出はありませんでした。

 その4ヶ月後、羽咋郡中荘村の田辺又五郎らが「邑知潟埋立願」を提出しました。大正9年に資本金100万円の邑知潟開墾株式会社を設立し、 10年3月に知事の認可がおりたのですが、11年に工事着手延期願を提出し、以来着工することはありませんでした。

 邑知潟の底に厚くたまったやわらかい泥が、当時の干拓技術を容易に受け入れてくれなかったのです。

 丹治が夢を抱いてから150年経った昭和43年、邑知潟は、新しい技術と彼らの意志を引き継いだ邑知潟沿岸土地改良区の熱意を認めて、ようやく全面干拓が実現したのです。

能州口部邑知潟絵図(文化14年) 羽咋市役所所蔵

10.邑知潟周辺の排水改良

干拓事業は輪中(わじゅう 家や農地を洪水から守るため、堤防を築いた地域)をつくることでもあります。邑知潟干拓では、9つの輪中が造られました。

 輪中の外に降った雨は、輪中には極力入れず、吉崎川、飯山川、長曽川などで直接邑知潟へ流します。

 輪中に降った雨は、8ヶ所のポンプ場で潟へ吐き出しています。

邑知潟輪中図

11.目には見えない潟の存在

 干拓が完了して30年有余、潟の存在を忘れさせてくれる十分な時間でした。

 今では見慣れた田んぼや畑は、実は潟なのですが、水門・堤防・ポンプ場が潟となることを防いでいます。

 目には見えない邑知潟は、干拓によって土は乾燥して縮み、地盤沈下もあったため、干拓以前より大きいはずです。

洪水に見舞われると、写真のような邑知潟が出現するはずです。

12.千年王国を築く水門建設

水田に降った雨は、地下に潜ったりしながらゆっくと時間をかけて邑知潟に流れ出ますが、宅地や舗装された道路ですと、一気に邑知潟へ流れ出ます。

 30年ほどの間、街は整備され、私たちの生活環境は大きく改善されましたが、その一方で豪雨は短時間に大量の洪水となって邑知潟やポンプ場を襲うようになりました。古い水門やポンプ場は、こうした洪水の変化に対応できなくなってしまったのです。

 川幅の3分の1を占める古い水門のコンクリート柱は流れを阻み、ポンプ場には吐き出しきれない洪水が押し寄せ、昭和60年と平成5年に大水害にあいました。

 今建設中の水門やポンプ場などは、太古からかたときも休むことなく続けられてきた潟縁農業を今後100年、1000年と引き継ぎ、千年王国を築く礎となるものであります。

羽咋川潮止水門計画絵

参考文献

  • 吉崎次場遺跡 県営ほ場整備事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書(1988石川県立埋蔵文化財センター)
  • 石川県土地改良史(石川県農林水産部耕地建設課編集)
  • 羽咋市史
  • 旧越路野村史(越路野の歴史編纂委員会編集)
  • 羽咋物語3(北國新聞社編集局編集)
  • はくいの昔 はくい叢書NO.5(羽咋市立羽咋公民館編集 )